なんでも相談室

お金になる、ならないは置いておいて、とにかく人の相談に乗ることが多い。

相談されることもあるし、悩んでるような様子の人を見つけたらついついお節介で声をかけてしまう。

思えば、小学校くらいからそんな感じだった気がする。ほっとけないのだ。

さて、この装いの庭のHP、今は予行練習のつもりで思いつくままに書いているけれど、そろそろコンテンツを充実させていきたいと思っている。リニューアルもする予定。

文章以外のお楽しみとして、申込み制の「なんでも相談室」でもやろうかな、なんて思っている。職業や働き方がどんどん多様化していく中で、どういう生き方ができるんだろう、これであってるんだろうかとみんなが試行錯誤している。そういう話を聞くのは好きだし、自分も含めて、いろいろな人のうまくいったことやいかなかったことを目の当たりにしてきたから、言えることもきっとある。

責任を負いたくないからやるなら無料。出したアイデアに納得してくれて手伝ってよ、となったら要相談という感じかな。

「なんでも」だから、仕事の話以外も受け付けたい。顔見て話したいってだけでもいいし、人間関係や恋の悩みにも乗ろう。あんまり役には立たないかもしれないけれど。

もしも始めたときはどうぞよろしくお願いします。

なんでも相談室

ローカルぬるま湯問題

数年前から地方は盛り上がっている。デザイナーやフォトグラファー、編集者などクリエイティブな人材が地域に移り住み、磨いてきた手腕で地域の魅力を掘り下げて発信する流れで盛り上がりが生まれてきた。

その流れに乗り、若者たちもまた地方に可能性を求めて(もしくは地方の人たちが若い可能性を求めて)集まりだしている。とてもすばらしいと思う。

けれど、気を付けなくてはいけないのは、若者たちの才能はまだ磨かれていない原石だということだ。

才能豊かな若者たちはその能力ゆえにそこそこ仕事はこなせる。おもしろいアイデアも持っている。周りの人たちは喜ぶ。しかし、それはあくまで原石ゆえの価値の範疇だ。若さと勢い頼みの成果にいつまでも甘んじていると奥行きや繊細さのある仕事を学ぶ機会は失われていく。宝石は磨かれてこそ光る。

地方は人材が少ないがゆえに競争が行われない。だから生きやすい部分もあるけれど、都心部のような切磋琢磨がないのでぬるま湯に浸っているようなことにもなりかねない。磨かれないから本来の成長曲線よりも能力が伸び悩みがちになる。

というような相談を受けたので考えてみた。

そうなるのはなんとなくわかるけれど、結論を言えば、結局一人ひとりの仕事の取り組み方次第だろう。たとえ都心部だろうと気の抜けた仕事をこなして過ごしている人たちはたくさんいる。逆に地方でも貪欲に自分のスキルを磨いていく人たちだっている。

雑誌やメディアなどの優れた編集者は、売上や数字をあげるための当てに行く企画だけでなく、雑誌の個性や特徴、メッセージを打ち出した攻めの企画も出す。と教えてもらったことがある。

それは結局売れるもの、売れたものだけやっているとほかも真似しだし、お客さんが飽きてしまうからだ。表現で生きていく人間は常に新しい領域への挑戦が求められる。

デザインや写真・ライティングなどの仕事への取り組みもそういう意識を養うことが大切なんだろうと思う。スピードが求められる。外さないことが求められる。その隙間で今までの自分がしてこなかった新しい表現のトレーニングをどれだけ積むことができるかだ。

どこにいたってぬるま湯から抜け出すためには自分の意思で踏み出さなくちゃね。

ローカルぬるま湯問題

最近は

織り機につどうの返礼品の準備をしたり、今年度のFUJIHIMUROの事業計画を練ったり。


昨年はもらえた仕事の期待に応えることでいっぱいいっぱいだった。意に添う結果を出せたかというと?がつくけれど、継続してもらえるような関係性はつくることができた。


今年はその仕事をある程度のレベルまで固めていく年。そうそう、この装いの庭のサイトも違った形にリニューアルしようとしています。6月中には更新できるといいな。

最近は

現実世界への復帰

5月1日〜10日の間、自宅でヴィパッサナー瞑想のセルフコースを取った。期間中は家の敷地から出ず、人との接触を避ける。PC機器にも基本は触れない。

それがどうなのか、というのはまぁいいとして、今日はそのコースが終わって現実に復帰した初日だった。

瞑想している間はやりたいことが次々に浮かんできてしまう。(自分で望んでその状況をつくっているというのに)

ということで、部屋に掃除機をかけ、洗濯ものを干し、シーツの穴が空いてたところを直したり、買おうと思いつつ、きっかけのなかった買い物を済ませたり、気になってたことを片付けていく。10日の休みの間のメールやらメッセージやらのチェックをする。止めてた仕事も前に進めなくちゃいけない。

時間の配分だけで言えば大きく遅れを取る。だけど、集中力が高まるから詰まってた仕事がすんなり進んだこともある。多少の遅れをとっても長い目で見れば 得だと思うので続けている。そんな感じの現実世界への復帰初日だった。

現実世界への復帰

考えることが仕事

珍しくタイトルが付いた。

ぼくの仕事はどうやら「考えること」だと思ったのです。
なんだかうまくいかない、その理由を“考え”る。
やりたいことがあるんだけど今ひとつ伝わらない、その理由を“考え”る。
理由だけでなく、うまくいくやり方、伝え方を“考え”る。
もちろん考えるだけでは何も変わらないから考えたことは外に出す。
けれど、外に出すことを決して得意だとは思っていない。
やり方にしても、伝え方にしても、
ああ、こんな風に外に出せたらどんなにすばらしいだろうか
と思える人たちはたくさんいる。

ぼくの仕事はそういう人たちがいかない領域に分け入って
ぶつかった問題を得意そうな人に解決してもらうことだ。
写真家と建築家の友人と一緒にやった「織り機につどう」はそれがうまく機能した例だと思う。

仕事がないときにライターをやって暮らそうかと考えたことがある。
何度も。でも、うまくやれる気が全然しなかった。
どうやって伝えるのかよりも、課題は何でどうやったら乗り越えられるのかみたいな
分析していく仕事のほうがずっと前向きに取り組めるのです。

考えることが仕事

唐突だけれど、スタッフを雇いました。

正直いえば、自分ひとりが生きていくのもギリギリのような働き方をしています。
というよりも、自分ひとりもどうして生きていけているのかわからないくらいの状態でした。
年度が終わって締めてみたら一応なんとかなってるみたいでした。

何をしているのかもとても分かりづらいです(説明もしづらい)。
にも関わらず、何かやろうよ!と声をかけてはいただけて、去年一年間、必死に取り組みました。
危ない橋を渡るような日々ながら、自分でも誇れる仕事がいくつかできたと胸を張ることができました。

今年度は「0」からつくった「1」をきちんと足場を固めて2倍、3倍に育てていく年だと思っています。
そのためには自分ひとりで成長させるよりもチームで働きたいと思ったのです。
世の中はコロナウイルス禍の真っ只中だけど、外に力を注げないからこそ、中身=仕事の仕組み作りや環境を整えるのに時間と労力を当てられるのではないでしょうか。
お金はないから借りる算段を立てています。

人を雇って一緒に仕事をしてみて、今までいかに自分が働いてなかったかを痛感しています。
いや、「働いていなかった」のではなく、「働けていなかった」が正しいかもしれません。
1人で働いていると1〜10まですべて自分の責任になります。
ちょっとした失敗が取り返しのつかないことになってしまうため、思い切りよくなかなかできていませんでした。
1人で自由に働くことは得意だと思っていたのだけど、実際のところはひどく要領がわるかったみたい。
人に仕事を頼む、伝わるように説明をする、相談に乗ってもらう。人のことを考えていろいろ気を使うほうが力が湧いてきます。

雇った子は、雑用みたいな仕事や面倒な仕事も積極的にこなしてくれる良い人です。
まだ一週間だけど、とても気持ちよく働けています。

なんだか不謹慎な気もしますが、こんな状況だからこそ目線を変えて、できることや目の前にあることを大切にするのが大事でしょう。
本当に恐れるべきは人の心の中に宿る不安や恐怖なわけですから。

報告書などの締めの作業がどうにもあまり得意じゃない。

思えば学生だったころからずっと苦手だ。できるだけしっかりやりたい気持ちはあるのだけど、今ひとつゴールをきちんと見据えられない。受け取り手の顔が見えずに迷路をさまよい、よくわからないものが出来上がる。そもそも成果を誇示するのも好きじゃない。

一方で未来のことを考えたり、計画を立てたりするのは得意なようだ。あんなことできたらいいな、じゃあどうやろうか。そのためにいくら必要で誰とやるのがいいだろうかと、そんなことは四六時中考えていられる。営業をやっていたころ予算計画を立てるのも好きだった。

どうしてこんなことを書き出したのかといえば、確定申告に追われているからだ。去年はほとんど全部が新しいことだらけだったため、経理に割く心の余裕が持てなかった。半年やそこらではなくまるっと一年分放置していて、そのツケを今払っている。同時に今年度の計画も立てているのだけど、こっちは楽しくて、ついつい気を取られてしまう。今年度はこの辺のバランスをちゃんと取れるようになるのが目標だ。

展示が終わって、なんとなくの片付けやら年度の締めをし、昨晩北杜に帰ってきました。

今日は朝から洗濯物やら部屋の掃除、荷物の片付けなどをしていました。
およそ3ヵ月放置していたために散らかりようもなかなか。
これから書類の整理に入ります。

昨年度はおおいに挑戦の年でした。
結果としては仕事をくださったみなさまのおかげで生き延びることができました。
昨年、新規の仕事だった案件は少し形は変わりますが継続させてもらえそうです。
ぎりぎりだったりもしていますが、継続できる仕事を作れたことは誇らしく思います。
少しずつ装いの庭の仕事が出来上がってきています。

今年度は危なっかしい部分を潰すべく仕組みを構築していくのが目標です。
外出の自粛や都市の封鎖が叫ばれ、危機感の募る毎日ですが、
行き届きにくかったメンテナンスを丁寧にやるのには良い機会じゃないかと捉えています。

みなさんも家での時間がポジティブに過ごせることを願っています。

沖縄からの帰り、一日東京でゆっくりする時間を取った。そして、リニューアルした渋谷PARCOと開催中のソール・ライター展を観た。

ファッションビルなんて本当に久しぶりだったけど、渋谷PARCOはちゃんとワクワクさせてもらえた。やっぱりポイントは7Fのサブカルコーナーだろうな。Nintendo、CAPCOM、ポケモンセンター。二次元のゲームの世界が現実の世界に飛び出してきていた。それとは別にARのアートスポットもあった。二次元が三次元に、三次元から二次元にと次元をクロスするような取り組みはこれからどんどん進化していくのだろう。

入っているテナントの動線とディスプレイや内装をひたすら見てしまう。こういう場で売ること自体はとっても難しいと思う。それでも世界観の表現力はとても勉強になる。構築的なプロの仕事が随所に光っている。

お目当てはほぼ日のお店「ほぼ日カルチャん」だった。“東京の文化案内所”を掲げていて、とても親切に注目の催事が紹介されていた。さすがの編集方法だ。大きくないスペースでも個性が出ていて、物量で攻めない。伝えることがよく絞られていて、親しみやすいように考えられている。PARCOのお店なのにまったく違う施設の宣伝しちゃうのもすごい。余談だけど、うまくお店にたどり着けなくて、8Fのほぼ日曜日に行ってしまったら糸井さんほかほぼ日スタッフが普通に打ち合わせをしていた。誰でもフリーで使えるみたいだったから一緒に仕事もできたのかな。そんな度胸ないけど。

ソール・ライター展は、ギリギリだった。3月8日までの開催だったところを会場のBunkamuraが明日から3月半ばまでコロナウイルスの影響で営業自粛するそうで、事実上、今日が最終日だった。
生でみるソール・ライターの写真はすばらしかった。当たり前にある日常の風景を、写真という機械を通して表現する姿勢がかっこいい。ポストカードくらい買って帰りたい気持ちもあったけどそれは思いとどまった。印刷された写真は少し古ぼけて見えたことと、自分の少ない資金は今を生きている、あるいはこれからの才能に使うべきなんじゃないかとなんとなく思ったから。

沖縄でテキスタイルデザイナーの近藤正嗣さんとゆっくり話をした。いろいろな話をしたけれど、ひとつ記録に残すとしたら、「(経験を積んで上にあがっていくときに)あんまり偉そうな物言いにならないように気をつけないといけないよね」という話をしたことだ。

傲慢さを回避するために、ぼくは「ありがとう」と「ごめんなさい」をいつも素直に言えるようにと心がけている。

「ありがとう」を素直に言えるというのは、いつもいろいろな人に感謝をしているということだ。どれだけの回数これを口に出して言えるかが、その人の心の状態の尺度だろう。人間は多少に関わらず周りの人の助けを借りて生きている。人以外のいろいろなものにも助けられて生きている。そのことをきちんと理解できているなら、感謝の言葉は自然と口をついて出てくるはず。

「ごめんなさい」を素直に言えるというのは、自分の間違いにどれだけ早く気づき、訂正できるかだ。間違えないことが大前提にあったとしても、大なり小なり人は過ちを犯す。どれだけ素早くこれを言えるかがプライドやエゴの尺度になるだろう。小さな過ちも放っておけば大きな過ちになることもある。余計なプライドは捨てて悪いことは悪いと素直に認めたほうが周りも助けてくれる。

そんな感じでなんとなくうまくいかないな、なんてときは「ありがとう」と「ごめんなさい」を最近言ってるかな?と想いを巡らすと打開するきっかけになると思います。常日頃から意識できると自分にも周りにも緊張を生まなくて済むから生きやすくなると思います。

なかなか言葉にする機会もなかったから貴重な経験でした。